まるで「恋」だねホント。

皆さんこんばんは。
「黒ひげ危機一髪」で1回目にいきなり当ててしまった、perfumeを応援する市民の会新潟支部長のシンジです。


さて今回は音楽変遷史、その第3回目。高校卒業〜大学時代についてです。
高校時代はラップ、ヒップホップ等のブラックミュージックを聴いていましたが、卒業後に予備校へ通いだした途端、あっさりとそのムーヴメントは沈静化しました。それには理由があります。
件の予備校に通い始めた1993年、世間では東京や首都圏の繁華街にアメカジや揃いのジャケット、そしてアメリカのストリートギャングを模したスタイルでたむろする、いわゆる「チーマー」と呼ばれた集団が社会的に認知され始めます。若さ故のモラトリアム、といった位置付けから、いつしか暴行、傷害、恐喝、他集団との乱闘等を繰り広げる反社会集団に様変わりしていきました(当時は終電後の渋谷センター街をスーツ姿で歩くなど自殺行為に等しい、とまで言われたものです)。
何かの報道番組だったかと思いますが、とあるチームにインタヴューをする場面を観た際、その中の少年がカメラに向かって「Yo men What's up?」とハンドシグナルをかざしながら分かった様な分からない様なスラングをシャウトする姿には思わず「ダッセーこいつ」と思わずにはいられませんでした。マトモに英語など話せないのにファッションや言葉をコピーする姿が大変滑稽に映り、同時にそうしたヒップホップカルチャーにシンパシーを抱いていた自分が急に恥ずかしくなりました。「ダッセー」のは自分そのものじゃないか、コレ外国人が見たら大笑いだろうな、と。そして翌年の94年、雑誌に取り上げられていたテクノの記事を見たことにより、自らの音楽嗜好は決定的なものとなりました。
ヒップホップの終焉からテクノとの出会いまでの間の約1年はガンズ&ローゼスやモトリークルーなどのハードロックに傾倒していました。
中でも当時所有していたモトリークルーの94年発表のアルバム収録曲「Fooligan's holiday」はよく聴いていましたね。これに合わせてエアドラムを繰り広げていたのも良い思い出です。予備校の成績もぐいぐい下がっていきました。
ボーカルがヴィンス・ニールからジョン・コラビに交代した時ですね。


ついでにこれも。「You could be mine」92年公開の「ターミネーター2」とのコラボでした。



94年、衝撃の出会いを果たしました。今日まで連綿と続くテクノとの出会いです。
最初に買ったテクノのCDがAphex twin。当初はアンビエント系を聴いており、スネアやハイハットの効いたフロア系は好きではありませんでした。
14年以上も前の曲ですが、今でもたまに疲れた時に聴くと脳にジ〜ンと沁みます。必聴。
部屋を薄暗くして、ヘッドホンで聴くのがおススメです。


他にもSUN ELECTRIC、PETE NAMLOOK、MASTERMIND、MIXMASTER MORRIS等、まさにアンビエント一色。
しかし人間、いつまでも同じものは飽きるのが常。そこで更なる出会いが待ち構えていました。ケミカルブラザース、プロディジー、ルナティックカーム、そしてBoomBoom satellitesといったブレイクビーツです。
まずケミカルブラザースの「Block Rockin' Beats」これはもう何度聴いた事か。
ヴィデオクリップも秀逸。


プロディジーの「Breathe」
これを爆音で聴きながら暗室で写真を現像するのが好きでした。


ブンブンサテライツは大学生活最後の年に知りました。
余談ですが、彼らが製作した曲があるファッション系の専門学校のCMに使われており、その映像を観て「よし、卒業後は東京に行こう」と決心したものです。それ程スタイリッシュな映像でした。残念ながら動画サイトでは発見出来ませんでした。
これはアルバム「OUTLOUD」収録の「Push Eject」です。この頃はテクノのフォーマットが色濃く残ってましたが、現在はかなりハードロックの風味が強くなり殆んど聴かなくなってしまいました。例えるなら昔の「レトロメモリー」などのふわふわ系ポップが好きだったcapsuleファンが、現在のディスコ・エレクトロサウンド全開の姿勢に追随出来なくなった状態と似ている、といった感じでしょうか。





そうしてこのブレイクビーツへの傾倒は2年間の東京時代、2002年まで続く事となります。
その後、新潟に戻った私に激動の日々が訪れるのです。





次回は音楽変遷史最終章「失意、絶望、そしてperfumeと言う名の光」です。