人間として。

4日目、その後半。








皆さんは「杉原千畝(すぎはらちうね)」という人物をご存知だろうか。
第二次大戦前、欧州にナチスが台頭する最中、外交官として赴任したリトアニアの日本領事館で迫害を逃れてきたポーランドユダヤ人達に、日本外務省からの命令に逆らう形でビザを発給した人物である。以前に観たドキュメンタリーで紹介されて、強いシンパシーを抱いていた。
「多くのユダヤ人を救った」という意味では92年にスピルバーグが監督した「シンドラーのリスト」が有名だが、それに準えて「日本のシンドラー」と形容される事が多い。



(余談だが、2009年にポーランドを訪れた際、内陸部のクラクフという所で、シンドラーがリストに加えたユダヤ人を労働者として勤務させ、強制収容所行きを免れさせた工場跡地を見たのも思い出深い)。
ナチスによって欧州を包囲されてしまったリトアニアポーランドユダヤ人にとっての脱出ルートは唯一つ、リトアニアからソ連に入り、シベリア大陸を横断して日本を通過。そこから太平洋を渡り、当時公式にユダヤ人受け入れを表明していたカリブ海の島、オランダ領キュラソー島へ辿り着くという、この地球を半周する程のラインだけだった。ソ連領内を通過する為の条件が「日本の通過ビザ」を持っている事だった為、ユダヤ人達はカウナスの日本領事館に押し寄せたのだ。
当時、否現在でも殆んど同じだが、ビザを発給する条件として筆頭だったのが「渡航・滞在の為の費用を有する事」であった。つまり充分なお金を持っていなければビザ発給は認められなかったのである。実際にユダヤ人達は当時「お金が無い」という理由でアメリカやイギリス等の領事館から発給を拒否されている。命からがら、着の身着のままでやって来たユダヤ人にそんな費用などある筈もない。当時三国同盟や日独防共協定を締結し、ドイツと同盟を組んだ日本の立場からしても発給は無理からぬ事であった。「査証発給・日本通過は認めない」という日本外務省との板挟みとなる中で、杉原千畝は独断でビザを発給したのだ。
今回訪れたカウナス、ここにその「命のビザ」発給を行なった領事館の建物が現在も残されており、彼の功績を讃える記念館になっているという。
聖ミカエル教会を通り過ぎて細い道をいくつか通り、通行人も殆んど居ない住宅地、バイツガント通りに、これまで何度も写真等で見たのと同じ建物が目前に現れた時は筆舌に尽くし難い感慨に包まれた。




日本から飛行機を乗り換え、列車に乗り、全てはこの為にやって来たのだ。この地を訪れる為に。





建物正面に向かって左側に入り口があり、ブザーを押すと中から人が出てきた。そのままスタッフに促されて、まず最初にプロジェクターが設置してある少し大きめの部屋に案内され、そこで彼の功績を称える映像が上映された。これまで多少なりとも杉原氏の事は知っていたつもりだったが、今回初めて知った事実もあった。領事館でビザを受け取ったユダヤ人達一人ひとりに「バンザイニッポン」と言わせていたエピソードがそれである。日本に対する感謝を忘れないでほしい、東洋の小国日本を忘れないでほしいという思いからであったという。映像は15分程だったが、その間何度も溢れる涙を拭った。




壁に面白いものがあった。これまでここを訪れた日本人が、自分の住む土地を示す為の、日の丸が付いた小さなピンを刺す地図である。よく見ると、自分の地元にはまだピンが刺さってない!地元でここに来たのは自分だけだという事に優越感を覚える。






杉原氏が書いたビザ。最初は手数料を徴収し、受給者の名前を記録していたそうだが、発給の作業効率を上げる為にどちらも面倒になって止めてしまったという。





これが杉原氏が領事館の執務で使用していたデスク。ここで休む間も無く何枚もビザを書き続けていたのかと思うと身体中の毛が逆立つ様な感覚になり、畏敬の念を禁じ得なかった。スタッフに頼んで椅子に座らせてもらう事も出来たのかもしれないが、敢えてそれはしなかった。自分如きが偉大な先達の使用した椅子に気軽に座るなどとはおこがましいにも程が有る、と考えたからだ。
当時ナチスの台頭に対してリトアニアを実効支配していたソビエトにより、日本領事館は閉鎖・退去を命じられた為、杉原氏とその家族はカウナス市内のホテルに移る事になる。そのホテルこそ、他でも無いホテル・メトロポリス。今回泊まったホテルである。
ホテルにもユダヤ人達が大勢詰め掛け、ビザの発給を求めたが、退去に際しビザ発給のスタンプ等は次の移動先であるベルリンに送ってしまっていたので、代わりに正規のビザとは少し違うが、それと同等、若しくはそれに準ずる効力を持つ「渡航証明書」を作成して対処した。

1940年9月5日、カウナスからベルリンに向かう列車が出るその日、駅の待合室でもプラットホームでも、列車が動き出しても尚、彼はビザを書き続けたという。
その後欧州を転々とし、ルーマニア終戦を迎え、「敗戦国民」としてソ連の収容所に入る事になった彼は1947年、ようやく日本への帰国を果たしたが、待っていたのは外務省からの退職命令だった。更に三男が小児癌によって7歳で死去するなど不遇の生活を送った。
本国の訓令に反したとして罷免の憂き目に遭ったのは彼だけではない。在仏ポルトガル総領事だったスーザ・メンデスは独断でビザを発給した責任を問われ、罷免させられただけでなく財産まで没収された。しかし戦後ポルトガル政府はこれが過ちであった事を認めて謝罪し、国の最高位メダルを授与して完全な名誉回復を行なった。
一方日本はどうか。戦後、ビザを手にして脱出を果たしたユダヤ人達は恩人である杉原氏を探したが、本名の『ちうね』で無く名前の音読みである『せんぽ』で外務省に問い合わせており、「該当者無シ」の回答しか返ってこなかったという。もっとも、その時期にリトアニアに居た「スギハラ」姓の外交官は一人だけしか存在しない事は明白であったにも関わらず、過去においても現在においてもそうした名の人物は存在しないと回答していた事実は「故意」とみて間違いないのではないか。
もしも杉原千畝の、ユダヤ人救出の功績を前面に押し出していれば、極東軍事裁判、いわゆる「東京裁判」の流れは変わっていただろうと言われている。後世に伝えるべき人物、そして日本人の誇りとして内外に知らしめるべき人物の存在を、あろう事か外務省は隠し続けた。昨今の中国による漁船衝突事件の一連の報道を観るにつけ、戦前から戦後、そして今日に至るまで日本の外交センスの悪さ、稚拙さは何一つ変わっていない、と怒りにも似たやる瀬ない思いにさせられる。




これはイスラエルが建国50周年を記念して発行した切手。ここには命懸けでユダヤ人救出に尽力した外交官5人の姿が描かれている。以下、左から、


ジョルジオ・ペルラスカ 1910−1992 イタリア人。ハンガリー、ブタペスト市のスペイン公使館スタッフとして働く。公使館閉鎖後、数千人のユダヤ人に通行証を書きスペイン国旗をたてた館にかくまった。


アリスト・デ・スーザ・メンデス 1885−1954 ポルトガル人。フランス、ボルドー市のポルトガル総領事。1940年6月にユダヤ人約1万人に許可証を出して解雇され財産は没収、一家は離散した。不遇のうちに死亡したと言われる。


チャールズ・ルッツ 1895−1975 スイス人。ブタペスト市にいたスイス公使。ルッツは数千人のユダヤ人に通行許可証を出し、スウェーデン公使のラウル・ウォーレンバーグに協力して、ユダヤ人を1945年2月まで他の中立国へ逃亡させた。


杉原千畝 1900−1986 日本人。リトアニアカウナス市の日本領事。ソ連政府の領事館閉鎖命令後、日本政府の訓令電報を無視して通過ビザを出し6000人のユダヤ人を助けた。戦後 帰国して 外務省を免官される。



セルハティン・ウルクメン 1914−  トルコ人ギリシア、ローデ島のトルコ総領事。ドイツ軍は全ユダヤ人を捕らえたが、彼はこのうち50人はトルコ籍だといって解放させた。他のユダヤ人1500人はアウシュビッツへ。


その他にもユダヤ人を助けようとビザを発給したり、匿ったりした外交官達は多く存在する。
http://www.chiunesugihara100.com/com-kinen-jusyo.htm


記念館の係員からポストカードを数枚頂き、何度もお礼をしてその場を後にした。
外に出ると強い充足感と心地よい疲労感が身体を支配した。いわゆる「やりきった感」。Perfumeの興行を観た後に近い感覚、いや今回はそれ以上かもしれない。予定では2年前にここを訪れている筈であったが、様々な要因が重なって果たせないままなだけにその想いも尚更だった。
ホテルに戻り、ベッドに倒れこんで、様々な思いが去来しつつ暫く天井を見上げていた。冷蔵庫を開け、ビールを飲む事にする。通常その国に旅した際は必ずその国、その土地のビールだけを飲むというのが自分の中での決まり事なのだが、前日ホテル近くで見た事の無い銘柄のチェコビールを発見。「チェコビール」と聞けば黙っておれない。



http://www.samson.cz/
味は「あああチェコの味だ」と納得。かつて杉原千畝チェコに赴任した事があるそうなので、恐らく本人も飲んだのだろうか、と想いを馳せる。
日が傾いてきた頃に再び外に出てミネラルウォーターやビール、スナック類を購入しようとスーパーマーケットに向かったのだが、そこで予想外のハプニングが起きた。
商品が入ったカゴをレジまで持って来たら、店員のおばちゃんがそれを指差し、明らかに拒否や否定のニュアンスでこちらに何事か言っている。リトアニア語なので答えに窮していると、そこに居合わせた大学生と思しき若者が英語で話してくれた。曰く「リトアニアでは毎年9月1日、スーパーや小売店などで酒類の購入が出来ないという法律がある」と。「新学期の始まる日だから青少年への影響を考慮してという理由で云々〜」というのだ。これにはただ唖然。リトアニアを始めとしたバルト三国に関する旅行情報誌は皆無に等しいと言っても過言ではなく、唯一のガイドブックが「地球の歩き方」である。
隅々まで読んでも「9月1日にはアルコヲル類は買えない」という記述は一切無い。最近出来た法律なのかと思って現地人に訊いてみるが「昔からある」との答え。ならばこのカウナスだけの法律なのかと思ったが「リトアニア全土での法律だ」との事。これだけの情報を記載し忘れる、若しくは存知していないなど極めて不本意。出版元のダイヤモンド社は大いに猛省して頂きたい。

A30 地球の歩き方 バルトの国々 2009~2010

A30 地球の歩き方 バルトの国々 2009~2010


それにしても「青少年への影響」を考慮するのなら、隣国ラトヴィアの様に「毎日22時以降は酒類購入不可」とした方が理に適っていると思うのだが。今夜はアルコヲル抜きなのかと落胆しかけたが、幸い「購入」のみが不可能であり、バーやレストランに行って飲むのは問題無いとの事なので胸を撫で下ろす。


夕食は少し離れたホテルの近くにあるレストランでスープとコウドゥーナイ(リトアニア風水餃子)、ビールを注文。その後ライスヴェス通り沿いのちょっと洒落たバーにて一杯。折りしもその時、FIBAワールドカップの予選が行われており、店内のテレビで放映していた。「FIBA」、FIFAの間違いでは無い。日本では馴染みが薄いがバスケットボールのW杯であり、予選リーグでリトアニアは強豪国のスペインを破って1位通過を果たしていた。日本でメジャーなスポーツは言わずもがな野球とサッカーだが、リトアニアではバスケットが最も人気なのだそうだ。
http://www.fiba.com/

ホテルに戻り、前日に買ったワインを飲みながらテレビを観ていると、リトアニアチーム予選1位通過を踏まえ、バーにて応援する人がかなり多いのだろう、窓の外から「ウォー!」という歓声が聞こえてくる。ホテルに至近の店でも多くが観覧していた。目の前のテレビ画面で、シュートが決まる毎に外からの絶叫が聞こえてくるのは何だか可笑しかった。
ゲームセットとなった瞬間、表の通りは勝利を喜ぶ人達が何やら合唱し始めた。恐らく国歌だろう。ちょっとした祝賀ムードに辺り一帯が包まれる中、自分もそこに相乗りする感じでグラスの中のワインを一気に空けた。サラミやスナックをつまみながら、ワインが無くなった時点でお開き。そそくさと荷物を整理し、シャワーを浴び、明日のビリニュスへの移動に備えた。
念願叶って訪れたカウナスも明日発つのかと思うと急に寂しくなってきた。
このホテルに滞在していた時の杉原千畝はどんな思いでビザを書いていたのだろう。そしてここに来たユダヤ人達の、藁にもすがる思いは如何ばかりであったろう。荷造りの手を止め、程よくワインの回った頭でそんな事を暫く考えていた。