それは、いのち。

皆さんこんばんは。
煩悩の数が108つどころではない、perfumeを応援する僧侶の会新潟支部のシンジです(←違うだろ)。




いきなりズバっと言いますが、私はカップルの惚気話が嫌いです。まぁ好きな人はそういないでしょうが。理由は単純、女子にモテないからです。
人は青春の煮詰まり感がキツくなると卑屈になってしまうもの。街行くカップルを見て「へッ、腕なんか組んでさ。何なんだよあの一方的関係を規定されちゃうような窮屈さは!」とか「あそこにいるカップル、からめた手を男の方が必死で『離すもんか・・・・・モトを取るまで』と掴んでるように見えるぜ」とか「女子のシャネルやヴィトンのバッグを抱えて男が後ろから付いて行く・・・全くもって嘆かわしい光景ですなぁ」等という負け犬グルーヴをシャウトしたところで誰がそれを責められようかというものです。気分転換に映画館に行ってみても、上映しているのはどれも恋人がビョーキになって泣いている様な退屈極まり無い作品ばかり。
謡曲においても、どうして内容が恋しただのフラれただのと言ったものばかりなのでしょう。しかもそうした楽曲をつい3週間前くらいにお赤飯食べた様な幼げな女の子が歌っていたりする・・・・リアリティも何もあったものではありません。
要するにそうした事にある種の拒絶反応にも似た感情を抱くのは、自分自身の恋愛偏差値の圧倒的な不足によるものなのです。perfumeの楽曲、『3部作』と言われる一連の作品には蔓延する既成概念からの超越と言う表現を用いたくなる様な作品性を感じました。しかし最近は『恋愛』の表現の比重が高まってきた事については私個人としては一抹の寂しさを覚えます。それは作品中のストーリーに共感する事が難しいという想いに他なりません。

最後の時が いつか来るならば それまでずっと 君を守りたい

皆さんご存知、『マカロニ』の歌詞です。
恋愛において相手との内面的交流の試行錯誤に汲々としてきた自分には、そこから先の、それこそ歌詞に表現される「安定期」の状態を経験した事がありません。しかし、この動画を観た時に歌詞の内容がリアリティをもって心に響いてきました。
『マカロニ』の歌詞は愛するペットへの想いを綴ったもの、と充分解釈出来るのではないでしょうか。
まぁ「牽強付会」という苦言も甘んじて受けます。

皆さんは、実は私が僧侶だという事は既にご承知の事と思います。
うちの寺には、だいたい年に1〜2回ほどですが「ペットの供養をお願いしたい」という連絡が来ます。私が見る限り、通夜や葬儀は厳かに、かつてきぱきとした時間のパッケージの中で粛々と進行していきます。昔に比べると泣く人はだいぶ減ったそうです。しかしペットが亡くなった時にはそこの家族全員が涙で顔を濡らしていて、思わず私も目頭を熱くしてしまう事も1度や2度ではありません。
愛らしくて、か弱くて、かけがえのない存在。そして、いつかやってくる別れの時。そんな儚さや、仏教における諸行無常という言葉の意味を身をもって教えてくれる小さな存在。私は『マカロニ』の歌詞の中にそうした光景が浮かぶのです。






追記。
上の動画を観た後でこちらも併せて観ると愛くるしさが特盛りです。